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ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ
Oct. 1998

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10.1/1998
10 PRINT "POWER TO MAKE YOUR DREAM COME TRUE "; : GOTO 10

▼祝 Oh!X復刊。

つうか、それがOh!Xである必然性は本来なくて然るべきなんだろうけど、とりあえずはめでたい。

同人誌みたいだな、と一瞬思ったけど、こんな編集と文章がしっかりしてる同人誌はあんまりないだろうな。そういう意味ではSTUDIO Xが、わりと無惨。


10.5/1998
このまま書かなくなりそうなので

▼ゲーム批評の新しいやつらしいのを見つけたので、手にとってぱらりと開いてみたら、いきなりつまんないことが書いてあって3秒以内に手を離しました。ノータッチ!

「『レイディアントシルバーガン』は『ビートマニア』だった!」みたいなわざとらしいこと書くくらいなら、素直に「『レイディアントシルバーガン』元ネタリスト!」とかやった方が書くほうも読む方も(もしかしたら開発者も)楽しいんじゃないのかな。同人誌で終ってる話かもしれないけど。

このゲームの操作法が不思議というか新鮮。


10.6/1998
読みもの追加

▼「「ミニゲーム」が「ボーナスステージ」でないなら、それは何だろう」という文章を書きましたよ。あいかわらずカッコの多い文章です。しかしもっと先に書かなきゃいけないことがあったと思うのだが。


10.8/1998
ドアロック式アドベンチャー

▼SCEの「やるドラ」シリーズの第3弾第4弾が、発売に際して「テレビドラマとして放映される」という話を聞いた。選択肢の決定はテレゴングで多数決するとか。なるほど、「やるドラ」の「やる」てのはそういう意味だったのか。個人的にはそういうことされると「じゃあ何でおれがやらなきゃいかんのか」という気分になるがね。

テレゴングシステムというのは参加したことないので知らないけど、あれは何事かに参加した気分になるものなのですかね。難しいんじゃないかな。たとえば、電話すると「それが何票目の投票か」を教えてくれるシステムだったら(そんなことできたら苦労はしないでしょうが)、遊び方がいくらでも浮かびそうじゃないですか。そういう「不完全かつプライベートな情報」が与えられないと参加した気になれないように思います。

▼上の話から思考がザッピングへ、そして「ナイトトラップ」がどうだったらもっと面白いか、とか考えてたら、突然「プレイヤーが好きなときに任意のドアに鍵をかけることで、登場人物の行動を制約して、話を展開させる」ようなゲームは面白いかもしれないと思いました。ある古い洋館に悪霊(でも何でもいいですが)が住んでいて、プレイヤーはその悪霊に殺された幽霊であると。そこに数人の子供(でなくてもいいですが)が迷いこんできて、当然悪霊が子供たちを狙うんだけどプレイヤーは子供たちに何も伝えられないし直接的には何もできないと。かろうじてできるのがドアに鍵をかけることだと(何故?)。そういう設定で、子供たちに行動を「選択させる」ことで悪霊の手から逃れ、できれば悪霊を倒して、で洋館から逃げさせるわけ。これはちょっと面白いかもしれない。途中子供が気づいたりしてさ、「…だれかいるの? いるなら鍵を開けて、もう一度閉めて見せて」とか言うわけよ! そこで応じてみるのも、あえて開けないのも面白そうだな。とか、うーわどんどんこのゲームやりたくなってきた! ないのかこれ!


10.9/1998
「動き」の快感とそのレベルとかなんとか

▼岩井俊雄さんが母校の小学校で行った課外授業を取材したNHKの番組を見て、岩井俊雄再リスペクト。

と、MCDさんから電話がかかってきました。番組の話題になり「どれも基本的にはパラパラまんがなんだね」とか素直な感想が返ってきてうーんまあ、とか答えたけど、あらためてフォローしておくとあの人は発明家ではなくメディアアーティストなのでそれでもかまわないように思います。芸術家に「ぜんぶ同じですね」というのは案外愚問であってさ。

個人的に思うのは、おなじアニメーションでも2コマと8コマでは「受ける刺激」そのものがずいぶん違うので、2コマより8コマのがいいとかスケーラブルな評価はできないなあと。リミテッドアニメとフルアニメで既に言われてることですが。


10.12/1998
書き込みバッファ

◆「「ホーミングレーザー」でトレースされるイメージ」、NHKの番組記念で「岩井俊雄さんに質問」、という文章をふたつthink-routineに追加。さて、これからだな。


▼バッファじゃなくてキャッシュなんですが、カラーゲームボーイのZ80には128Kのキャッシュが積んであるらしいです。あはははは。そりゃすごい。ある意味で夢のハードなのかな。


10.13/1998
可搬筐体

▼最近のことですけど、ギャラクシアン3(シアター6)の筐体が動かせるものだと知って衝撃を受けたんです。つうか、先日ゲーセンに行ったら置き場所が変わっててびっくり。動かすか!(理由もよくわからん)

よくみればさほど重いものでもないのかと思えますが、ふつうは動かさないよな。似たような話では、なんらかの事情で運搬してたらしいセガ「ロスト・ワールド ジュラシックパーク」(アップライト筐体)が幹線道の中央分離帯で立往生してる、という光景に遭遇したときも、カメラ持っていないことを後悔しました。


10.15/1998
ゲームライターである以前に、ゲームプレイヤーでなければならない

野安ゆきお氏のページ。すらりすらりと書いてあって、ちゃんと愛もある。ほかのぎすぎすしたページに慣れてると、なんだかゲームのことが書いてあるとは思えないくらいであるよ。


10.17/1998
それは「ゲームであること」をアフォードしている

▼ゲームラボを見る。ドンキーコングの話。

あ、なるほど、外国ゲームをパクッたと。そうかそれは考えたこともなかったな。でもそれがなんてゲームなのかわかんないし(書けよ)、そもそも、なんでそんな一般に知られてないようなゲームをパクらなきゃいけないんでしょう、インベーダーのコピー基板作るような会社が。

あるいは、そんなだれも知らないようなゲームに目をつけてあんなメジャーなゲームに仕上げるなんて、よほど目利き&腕利きの製作者がいたことになりますね、任天堂には、おっと、池上通信機でしたっけ。

▼その任天堂の、64ゼルダのCMを見た。おもしろい! CMじゃなくてゲームが!

まだやってないんだから「おもしろい」というのはうそだけど、でも「空前絶後におもしろそうだ」というのはわかりましたよ。さてこういうような(というか僕がよくするような)「やってないのに『ゲームがわかった』と言う」態度に、やってないのにゲームを判断するなんてとんでもない、傲慢だ、という意見があって、確かにそれはその通りだと思うのですが。しかし、これは言いそこまちがいというやつで、ほんとに言いたいのは画面なり映像なりを一目見てそれが「ゲームであることがわかった」ということなんじゃないか、と思うのです。

ゲームと銘打ちながらちっともゲームじゃないものが存在します。当然ながら「ゲームであること」がわかるゲームのみがわれわれにとってゲームなのであり、ゲームであるならばそれは何らかの意味でゲームだとわかるものであるはずです。一目見て、それがどんなゲームなのか、そこで自分がどんなプレイができるのか、がわかることは、すなわちそのゲームの「ゲームであること」における優秀さを示していて、そのような評価は傲慢であるどころかまったく正当なのです。そして、それとは別に「ゲームとしての」善し悪しというものもまた存在して、それはさすがにやってみないとわからないと言えるんですね。

たとえば、ハードスペックの向上が「ゲームであること」を一見わからなくさせます。そうなったとき、われわれはどこに「ゲームらしさ」を感じ、どうやってそれが「ゲームであること」を理解するのか。これは「ゲームとしての」善し悪しとは別に考えていかなければならないことです。そしてさらに言えば、ここでは「やらなければわからない」という意見こそが傲慢になるのです。「どう見てもゲームには見えないもの」が、どうしてプレイしてもらえると考えられるでしょうか。


10.19/1998
touched by the hand of GUNPEI

◆各コーナーの細部をいじったりsandboxに前書いたreadmeを復活させたりしました。いま見るとわりと重要なことがいろいろ書き捨ててあるような。


▼なんでもバンダイの「ワンダースワン」が、実は横井軍平さんの手掛けた最後のゲームマシンだというです。で、「へのへの」が「GUNPEI」というタイトルで出るみたい

MCDことY.Shimizu氏のページ。書いてるだろうと思ってたけど、本人がようやく公開した。ちょっとおもしろくなってきたぞ。


10.23/1998
A氏B氏の事情

▼意見も交換したのでこれについて。

「ゲームに興味を持つ」ことの根拠がA氏とB氏で違って、しかもそれぞれがそういうものだと思っていることですれ違いが起きているわけですが、これA氏のような意見やB氏のような意見があること自体は両方とも問題ないと思います。でそのすれ違いを問題としてそれがすれ違いだとA氏B氏に教えてあげようとするか、というと個人的にはそれは興味がないです。

それとは別に、(A氏B氏には関係ないですが)それが「ゲームである」ことに関する根拠という問題があって、こっちには興味があるわけです。テレビゲームの「ゲームである」ことを考えるのに「ゲーム性」からアプローチしていくと議論がどんどんテレビと離れていくんですね。もちろんゲーム一般の原則論を書き下ろしたいということなら構いませんし、それならテレビゲームを除外すればわりと素直にまとまるんじゃないかと思います。しかしわれわれは依然としてテレビでゲームがしたい。なぜか? いやなぜかはともかくじゃあわれわれはテレビでどんなゲームがやりたいんだろう? ていうか「テレビでどんなゲームがやりたいか」ということのみにおいてテレビゲームが規定されてるんであって「テレビゲームはこうでなければならない」という根拠(たとえばゲーム性みたいな)はないんじゃないか? というあたりですね。このへん感覚がマヒしきってて正しいんだかなんだかわかんないのでおかしいと思ったらつっこんでくださいこれから。

また、前者の問題において双方がそのすれ違いを認識しないためにお互いに間違ったことを言い出す、という状況にMCDさんが我慢できない(かどうかはわかりませんが)というのは理解できますので、それはそれで正しいことを言ってもらえれば胸のつかえがおります。


10.27/1998
シーケンシャルコンシステンシー

▼いわゆる「おつかいシナリオ(盲導犬RPGでもよいが)」を否定していわゆる「フリーシナリオ」を指向するというのは、コンピュータアーキテクチャにおける「ノイマン型コンピュータ」の否定と「第5世代コンピュータ」の指向、になぞらえられるかも、とちょっと思った。

オチが読めるからダメか。


10.28/1998
プレイすることは信じること

▼ちょっとおもしろそうだったので「映像論 〈光の世紀〉から〈記憶の世紀〉へ」(港千尋 著・NHKブックス)という本を買ってみた。まだ読んでないけど、オビによるとこんな感じらしい。

わたしたちは今、見ることが神話となってしまった時代に生きている。テレビ番組やアニメーション、映像技術や表現については、洪水のような情報が日々生産されている。しかしそれらを見ること、見るという経験そのものについては、もはや誰も考えようとはしない。

ゲームは体験だ、とかよくいわれますけど、やはり実際にはそんなことはとっくの昔に忘れられているのではないですかね。とりあえず「体験」にはよい悪いというものはないと思うので、そのへんに気をつけたいものです。



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