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シ ン ク ル ー チ ン
release : 10.12/1998 / update : 1.12/1999


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#2 「ホーミングレーザー」でトレースされるイメージ

featuring 「パンツァードラグーン」(SEGA/Saturn,Win)

■たとえば、パンツァードラグーンのゲームとしての優秀さには、優れたグラフィックイメージとか、バランスのとれたゲームシステムとか、凝った世界設定とかと並んで、「ホーミングレーザー」という武器の爽快感がある、ということにわざわざ論なんか待たないのだけども、同時に考えるのは「仮にパンツァードラグーンを海外のメーカーが作ったとして、彼らは『ホーミングレーザー』という武器を導入しただろうか?」ということだ。案の定奴らノーマルショットだけの大味なゲームにするんじゃないか、と想像しちゃうよな。偏見だけどね。

■連中のアメリカンテイストを引き合いに出すのはともかく(いやまあ連中というのがアメリカ人かどうかもともかく)、日本の特にシューティングゲームには「ホーミングレーザー」のような軌跡を描く誘導兵器、という表現が多用され親しまれてさえいるという事実はあって、しかもそのような表現は最近とみに増えてきたというのも事実であって。もちろんそれらが日本のSFアニメ的な表現を引用していることは間違いないし、多用される理由をそこに求めることも可能なんだけど、それに加えて僕は「ホーミングレーザー」がきわめてコンピュータゲーム的なガジェットだからなのではないかと考えているわけだ。

■「コンピュータゲームにおいて『プレイ』と『操作』は違う」という言葉がある。いやない。というか今考えたけど、つまり「キャラクタを思うままに動かしたい」とか「敵を華麗にやっつけたい」とかいった「プレイ」への欲求は、ボタンを押すとかレバーを倒すとかいった「操作」につきまとう限界とは関係ないということだ。というか、関係あってはいけない。当たり前だけど、とにかく別。そしてゲームは「操作」の限界ではなく「プレイ」の欲求にしたがってサービスすべきであると。それがたとえば「ホーミングレーザー」に表現されているんじゃないか。

■さてコンピュータゲームにおける「ホーミングレーザー」について。「ホーミングレーザー」という武器は、「操作」としてはロックオンしてボタンを押すだけなんだけど、プレイヤーとしては軌跡を残しながら敵を追尾して撃墜するという過程も自分の「プレイ」として認識することができる。正確には、プレイヤーがそう「錯覚」することができる。美しい軌跡を描きつつ華麗に敵を撃破した俺は天才だ、とか感じることが可能だ。そんな思わないっすよ、という人でも、ノーマルショットよりも「壮快感」を感じるだろうことは間違いないんじゃないか。「壮快」ってのは「プレイに納得がいく」ってことでしょ? それに「壮快感」を感じるってことは、われわれがそのような「プレイ」を望んでいるってことじゃないか。そんなわけで、敵を破壊するという効果も、「操作」自体も普通のショットとたいして変わらないけど、結果としてはプレイをよりダイナミックにできるという意味で優れてコンピュータゲーム的なのが「ホーミングレーザー」だ。

■もちろん、プレイヤーからなにもかも奪ってしまって、ともかくかっこよければいいんだ、といっているんじゃない。「操作」の上達による喜びだって十分ゲームだし、それも必要だろう。ただ、「操作」を複雑にしてもたいしてゲームは豊かにはならないとはいえる。書いたように「操作」を追求したって自ずとそこには限界があり、プレイヤーがしたい「プレイ」には届かないんだ。考えなきゃならないのは「最低限の操作で高度なプレイを実現する」こと。そこにあるのは「操作」というよりむしろ「制御」の思想であり、それは「操作」よりずっとわれわれの「したいこと」に近いと思う。その高度なレベルでこそ、「ゲーム」を成立させていくべきなのではないかな。














注釈とか余談
ホーミングレーザー
例としてはレイフォースのロックオンレーザーでも構いませんが。

偏見
まさしく偏見で、最近はそうでもないようです。

日本のSFアニメ的な表現
有名で言うまでもないのは「超時空要塞マクロス」の、いわゆる「糸引くミサイル」。「板野サーカス」なんても言いますな。マクロスはいくつかゲーム化されていますが、そのどれもが「マクロスのミサイルをゲームで実現したい」という欲望によって作られているとしか思えません(いいすぎ)。


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