「ジェニック!!」
一瞬の恐怖の後、痛みを感じないことを不思議に思いながら、目を開けた彼女の目に映ったのは、 全身血に染まった男が崩れ落ちていく光景であった。その男は紛う方なくジェニックであった。 彼女は、やけにゆっくり倒れ込んでいく男に見入っていた。その間、彼女の周りの音は全て消え、 自分が叫んだ言葉すら彼女には聞こえていなかった。おそらく、自分が叫んだことにすら気付いて いなかったであろう。世界がやけに白っぽく静かで、自分の心臓だけが、やけに場違いなほど 激しく動いているように感じた。その後突然、彼女の耳には周りの音が聞こえだし、その感覚は現実に 引き戻された。
「…三つ身分身ができる男なんて、そうはいない…お前が…最近エージェントに なった…ユーシスって奴か…」
崩れ落ちていったジェニックが片膝をついて身体を支え、男に向かって喋っていた。胸はざっくり割れ、 とめどなく血が流れている。地面には赤い水溜まりができ、鎧の残骸が散らばっていた。メリッサは ただ呆然とその様子を見つめていた。
「…同業者か。俺の仕事の邪魔をするな。そこをどかねばお前も殺す。」
ユーシスは表情も変えずに言い放った。彼が任務遂行のためなら人殺しなど厭わないことは、 同じエージェントであるジェニックが一番よく分かっていた。
「ユーシス…俺の目を見ろ…」
ジェニックの両の瞳が青色から除々に変わっていく。赤に銀に緑に……。
「ユーシス…俺達のことは全て……忘れろ…!!」
ジェニックの言葉に引き込まれていく自分に気付き、ユーシスは、はっとした。「まずい!催眠術か?」頭の奥から警告が聞こえるが、身体が反応しない。この世のものとは思われぬような色に変わる ジェニックの瞳は、異世界への入口のようにユーシスの頭の中に入り込み、彼の精神を別世界へと誘った。 肉体的にはもちろん精神的にも自信のあった彼であったが、意識がどんどん薄れていくのを感じた。 「そんな…ば…か…な……」ユーシスは崩れるようにその場に倒れた。
「ジェニック!ジェニック!!」
メリッサはジェニックを抱きかかえて、その名を呼ぶことしかできなかった。人の死を数多く見てきた 彼女には、彼の命が助からないことは分かっていた。ジェニックはメリッサの胸で輝く首飾りに手をかけた。
「母さん……これ、大切に…してくれてたんだ……」
その首飾りの女性はメリッサそっくりであった。そして、その裏には「Melissa Genic」という文字が 刻まれていた。その首飾りは、メリッサと名乗っていた女性の母が、ジェニックにもらったものであり、 反逆者に殺された時に奪われたものであった。
「母さんに…話しは、聞いてるな?」
ジェニックは目の前にいる女性を見つめて尋ねた。彼女は全てを母から聞いていた。
彼女の母メリッサには、バイオシステムで働く父がいた。その父は分子生物学の研究者であったが、 政府に隠れて人工的に異能者を作りだす研究をしていたのである。異能力に関係すると思われる遺伝子を 常人の卵子に導入する、こうして生まれたのが、彼女の父ジェニックである。その結果、肉体的には たいした能力を得られなかったが、ジェニックは瞳の色を自在に変えて、人を催眠状態に導く力を 持っていた。その後、ジェニックとメリッサは恋に落ちたが、父は気付くことはなかった。 ジェニック十三歳、メリッサ十四歳の時、ついに政府に研究がばれ、家にエージェントが乗り込んできた。 メリッサの父と母は一刀のもとに切り殺された。ジェニックはメリッサを逃がすためにエージェントと戦った。 メリッサはお腹の子供と共に第二層へと逃げのびた。
これが彼女が母から聞いていた話の全てであった。実際は、エージェントと戦ったジェニックは実験体 としてつかまり、たいした能力がないと分かった後は下っ端のエージェントとして働かされていたのである。 政府に生殖能力がないと思わせたのは、子供の身を案じてのことであった。もちろん、そう思わせるために 彼は特種能力を使っており、その特種能力については、ずっと隠し続けてきた。