■19990829
■19990828
■19990822
「ドラクエのゲーム性」と書いたら、それはトートロジーだということです。だから、「映像は確かにきれいだけれど、しかしゲームとしてはどうか」というよくある“苦言”は、「我々はどういうものをゲーム的であると呼ぶのか」「ゲーム性とは何か」「ゲームであるものとゲームでないものとの差はどこにあるのか」のような“疑問”に曝され窮地に陥るにもかかわらず、“疑問”の嘘を端的に暴いている。なぜなら、“疑問”がはらんでいる、ゲーム的とかゲーム性とか呼ばれるものが「それ」に内在しているから私たちは「それ」をゲームと呼んでいる、という嘘を、「しかしドラクエとしてはどうか」との翻訳可能性において“苦言”が許していないからです。
ドラクエがゲームであるということをいかなる意味でも疑った子どもはいなかった。そこが基準になっているのです。したがってドラクエとの接点がまったくない人ならば、FF8を映画的だと呼ぶことの気安さはもちろん、ゲーム的だと呼ぶことにもなんら躊躇しないと思います。そこに“疑問”はありえません。
■19990818
ざる夫さんがここを読んでいてびっくり。ていうか、私はともかく、Dotimpactが絡んでいるなら面白い話が聞けそうだと期待させてしまっていたとしたら申し訳なかったなあと懺悔。コミケ報告。宝島について。シーマンのためにDCを買う、というのはアリかナシか。同様に、ソウルキャリバーのためにDCを買う、というのはどうか。ていうか、「シーマンのために」とか「ソウルキャリバーのために」などといった表現は、一体何なのか。FFに対するよくある批判「映像は確かにきれいだけれど、しかしゲームとしてはどうか」について。そこで訝しがられている「ゲーム」とは、「ゲーム性」ではなく「ドラクエ」そのものではないか。つまり「しかしドラクエとしてはどうか」と書き換え可能。FFが「映画としてはどうか」と問われない理由はどこにあるか。ていうか、あっていいの?
■19990812
日記。プライベートな言葉が業界の未来を語る、という身振りのいかがわしさとずるさについて。例の20万人コンサートに驚くとしたら、それは「日程を分けなかった」という判断それ自体に対してだろう、という感想。映画「π」とNHKスペシャル「人体III」第5集に共通した着地地点について。塔矢アキラ。原作つきゲームについて。関連して、タッチとバツ&テリーとオバQ、カードキャプターさくらとコットン、ベルセルクと魔剣XとD2。NOCCHIと広井王子、職業(とくに画家)について。ざるの会的語尾について。東浩紀に見えているもの、(おそらく)見えていないもの。関連して、大塚英志が江藤淳の政治性をどう捉えているかということ。黒田硫黄の「大王」。THE WORLD CUP 1962以外はわりとふつう(ふつうでなさ、がふつうということ)。
■19990811
■19990804
「デリダ論とエヴァ論が同時に読まれていない」のは、読む側の「大雑把」で「乱暴」な「読み」の問題なのでしょうかね。個人的に三年前の疑問が再燃しています。
(他の人は知りませんけれど)私がそのふたつの論考を同時に読めないのは、批評の領域や文体や語彙やそれらをめぐるイメージの問題ではなく、「硬質な論理的文章」という共通項はあっても、テクストの周到さに差があって、読んでいてガクッとくるからです。
「読者がデリダ論とエヴァ論とを往復してくれること」を東さんは期待しているんだろうということは、むしろ想像しやすいと思います。だから、関連はない、という不毛な前提があるから往復できないのではなく、関連があるはずだと思って読む「にもかかわらず」往復できないのです。
ところで、「芳川泰久氏への応答」は当の芳川さんの文章がないと、ちと読みにくいのでは。もっとも、要所で引用があるので読めなくはないですが、それはそれで公平さに欠けるような気がします。それとも、論争そのものは大した内容ではないので、これはたんに東さんの問題意識として(つまり芳川さん抜きで)読めばいい、という意図でしょうか。