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■19990727


玉吉の新刊。あと、何年かぶりに「画集」を買う。さらには、注文していた本が届いたり、「妖怪花あそび」が届いたりもした。「郵便的不安たち」が市内の本屋では全滅(売り切れたというより入荷した様子がない)。仕方がないので、素直に注文(ざっと二週間かかる)か、あるいは(今週末)帰省する友人に買ってきてもらうか、と思案中。ついでに、ソウルキャリバー体験版で、静かに動揺する。

映画館へ行く暇がない。「ピカ」「アナキン」「山田」すべて見逃しそうな気配。ところで、「まるで映画みたい」と言う場合の「映画」より、「しかしゲームとしてはどうか」と言う場合の「ゲーム」の方が気にかかります。

■19990722


えっ?

■19990718


「例えば、ビデオが普及し、子供でも操作できる。子供がある映画を見ていて、好きな登場人物が死んじゃった。そこで子供はテープを巻き戻し、その人が死ぬ寸前でテープをとめ、見るのをやめ、その人は死ななかったことにする。こうやって、死という嫌なものから逃げ、死というものをあまり考えなくなったりするんです」という、ノンフィクション作家のコメントに面食らいました。いるのかね、そういう子ども。

ではそれに続く「『ペットは死ぬからだめです』なんて言わないで、ペットを飼えばいいと思うんですね」という一文はどうか。つまり、教育を優先させろと。まあ確かにそうだけど、たとえ話の子どもより、そういうふうにしぶしぶ「死」を扱う大人の方が「考えていない」という感じがします。

■19990713


「無関心」という言葉は、暗黙のうちに「批判」を意味する場合が多い。議論ではとくにそう。最低限に抑えられた「関心」が、相手の弱点(関心?)をピンポイントで「批判」する。

ところで、純粋な「無関心」は、原理的には「批判」を意味しえない。しかし、おそらく映画は、川の向こうの激しい議論を、純粋な「無関心」の力によってひっくり返せる。川の向こうでは、それらしい作品だけが遡上にのるが、川のこっちではほとんどすべての映画に、その純粋な「無関心」の力が宿っている。駆け引きのない「批判」。容赦のない「批判」。相手を見ない「批判」。つめたい「批判」。他者からの「批判」。私は川の向こうの住人だから、そのことに強い危機感を抱く。

■19990709


アメリカが、今度はバイクの市場開放を求めている。何か障壁があったのかしらと記事を読むと、日本は高速道路でのバイクの二人乗りを禁止しているというのがそうなんですって。危険だから許すわけにはいかないと反論すると、アメリカは二人乗りは運転手の注意力を高めるためかえって事故が減るんだという資料で応戦します。そういう奇妙な資料があるなら、高速道路で二人乗りできないという理由で“不当に”売れなかったアメリカ製のバイクの台数を概算した資料もきっとどこかにあるに違いないと思えます。だとすればもはや、二人乗りを許可したって誰も困らないような気がしてきませんか? 錯覚だけどさ。それにしても、そういう「超」合理的な発想を、彼らはいったいどこで学んでいるのか。


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