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■19990629


掲示板をテスト。今後はなんやかやいろいろご自由にこちらまでどうぞ、というような魂胆。

■19990620


批評空間第II期21号にある共同討議を、東浩紀さんを中心に読んだ場合の印象。討議の取っ掛かりを自著に求めたり、十年以上も前の論文を掘り起こして問題提起をしたり、自嘲気味に「営業」の一言を吐いたりといった立ち回りがあまり上手くいっていない。批評的なレトリックから脱出しなければならないというのなら、まずそういった立ち回り自体を考え直してみたらどうか。

「文壇なんてどんなに小さくてもいいし狭くてもいいし閉塞していてもいいけれど、質の高い権威であるということを維持していかなければどうするのか、という心配」を語る福田和也さんの立ち回りの方が、批評的な批判は浴びやすくとも自然な話として聞けます。

というような感想を、先日いざ電話でしゃべろうとして、うまく言えませんでした。ところで「すべてが表象可能であるわけではないが、表象不可能なものにテクストの中で直面するという身振りは、イデオロギー的に最悪である可能性がある」という東さんの言葉はちょっと重要だと思った。

■19990617


傍受にしろ住民番号にしろ「重大なことなのにあまり騒がれていないようにみえるのはなぜだろう」という指摘こそが、二十世紀も終わりに近づいた今日の典型的な騒ぎ方だと私は思います。マスメディアがあまり騒がないのは、それを記事にしても誰も読まずしたがって雑誌も売れないからだという定説から、報道の危機などを嘆いてみたりすれば、どっしりと成熟した大人のコラムが自動的に完成するわけです。いずれにしても、叩く相手を間違えています。

政治家や芸能人の私的なスキャンダルなら飛ぶように売れる、というのがまた一方の定説なのですが、だとすればPentium3のチップIDが騒がれたのも、プライバシー保護の観点ばかりでなく、たんにインテルのスキャンダルとして消費されたという側面も無視できないのではないか。もっともそこには、二十世紀も終わりに近づいた今日の騒ぎ方として、わざとらしい成熟よりも重要な何かが、可能性として含まれているような気がします。つまり、批判の妥当性はともかく、叩く相手だけは間違えていないのです。

■19990614


「自分が反対だからといって組織で決めたことを守らず、子どもの前で(日の丸を)引きずり下ろすような教師は、人間として欠陥がある」と「一般論」として発言した代議士がいたそうですが、そこにある「押しつけがましさ」だけに注目すれば、その教師と学校という組織は、見た目べつべつの方角を向いてはいても、同様の欠陥を仲良くさらけ出しているように思います。つまりこの発言者は、論理の射程を見誤っている「だけ」なのです。そこ以外は、たぶん正しい。

■19990610


ゼルダの伝説級のアイデアは誰にだってあるが、それを実現するための金と権限が任天堂と宮本茂にしかないのだ、という論理は、その論理の箱庭において正しいというような、ひどく限定的な感じがします。

もちろん、実践的な話としてはよくわかる。ただ、私が疑問に思うのは、この論理の箱庭が、他でもなくあの任天堂に金があるということと、他でもなくあの宮本茂がそれだけの権限を与えられているということの「取り替えのきかなさ」と、妙な具合に癒着しているようにみえる点です。つまり、では任天堂以外のどこかの会社とその社員が、ゼルダの伝説に費やされたお金や権限をそっくり手に入れた場合、当然の帰結としてゼルダの伝説級のゲームは産み落とされるのか、それを頭から信じて良いのかという凡庸な問が、その論理によって解決されているのではなく、その論理の構造において巧妙に排除されていると感じるのです。

べつの言い方をすれば、ゲームの品質をお金だとか権限だとかの経済や政治の問題にひとまず収斂させてみせることで、その製作会社や製作者の神格化を阻んでみても、結局はべつの意味で、それはつまり取り替えのきかない固有名の問題として、相変わらず神格化されている気がするのです(私は神格化がいけないといっているのではなく、論理の強度が論理の外からの無担保の借入で維持されているように読める、ということを指摘しているのです)。

経済や政治はレベルの低い事柄であり、無視できると確信しているナイーブなゲーム少年の認識を逆手にとって、金と権限をよこせばすぐにでもあの程度のゲームは作ってみせる、くらいの啖呵を切らなければ、結局それも、表層的なパフォーマンスとしてしか機能しないのです。

しかし、反論を志したこちらとしてじつに弱るのは、なにより娯楽性の高いサイトでのことなので、このような批判は圧倒的に決まりが悪いということ。たとえば鈴木裕→鈴木U→鈴Qのような変形をしれっとやってのけるあたり、レトリックの作為性なんぞには目を瞑ってもおつりが出るくらい、あまりにも得難いものだから。とくにUからQの変形は無敵です。あるいは、私が読んだような神格化を、むしろ望んでいるのかもしれませんし。

そんなこんなでせいぜい言えるのは、敵も多いだろうけれど、くだらない味方も多いんだから気をつけてよね、影響力大きいんだしというくらいのつまらぬ苦言に落ち着いてしまいます。残念だけど、今はこれで精一杯。

■19990608


Dotimpactの人と深夜の長電話。

「タイトーのアウトフォクシーズ」という存在感について。craftmanshipthink-routineは論理的というよりは実践的だということ。関連して、任天堂に関するざるの会的言説への反論は可能か? さらに関連して、水玉のSFマガジン連載記事の非実践・非論理性と、サイレントヒルにおける女性的ホラーあるいはモダンホラー。公平さや勤勉さではなく「どうしても書けない」という諦念から這いあがるように書き始められたゲームの批評をこそ読みたいということ。関連して、永田さん(ファミ通)のポケモンスナップ・インプレッションについて。さらに関連して、ゲームの批評の一般的な貧しさの原因はゲームそれ自体にあるのではないかという、抑止力としての最終的な仮説について。クロスレビューに対する「慣れ」の必要性について。購入動機を事後的に他人から与えられる人たちを一般層と呼んでみる試みについて。

■19990607


保証期間内の一度の故障を挟んで4年と10カ月間がんばってくれた三菱のRD15DIIが勇退。新人は東京特殊電線のCV821X。15インチから19インチへ。重い広い美しい。せっかくだからBNCケーブルを買ってこなきゃね。

テレビをつけたら待機していたかのごとく始まったので、本当は観なくても良かったのだけれど、映画「スポーン」を観る。とくに感想はない、就寝時刻がいつもより遅くなっただけ。

■19990605


映画「コンタクト」を観る。そうか、北海道だったのか。ところで、人類の95%がなんらかの神を信じているというのはホント?

■19990604
安売りで「サイレントヒル」、ワゴンセールで「ワースタ2」「海へ」「ノエル3(SS)」を買う。あと、「トゥルーラブ」や「エコーナイト」なんかもワゴンで叩き売られていたのを購入。うちふたつをさわりだけプレイ。

「トゥルーラブ」に特筆すべき点無し。

「エコーナイト」は、幽霊がいてやられっぱなしで、でも電気を点けると幽霊が消える、というルールがあまりにも的確だと思った。それ以外は「丁寧な作り」が取り柄という感じ。すなわち良心的な一作。


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