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■19990228


ずらり並んだあのトラックボールのようなボタンに手をかけた時の感触がとても好きなので、PSやDCのポップンミュージック専用パッドの普通さ加減には、ちょっと落胆しています。家庭用への移植に伴い、前列・後列のボタンが何のまえぶれもなく同じサイズになっていることも含めて、もともとのアーケード版のコンソールデザインに、大した意図のなかったことを示しています。このへんのいい加減さはBMにも通じていますね。

ポップンミュージックよりはBMに多くのお金を投じているのですが、いかんせん「どうしてあまり面白くないのか」を知るためであり、逆にポップンミュージックは、ゲームをやらなくてもボタンに手をかけて押すマネをするだけでわりと幸せなのです。

またちょっと更新が途絶えます。

■19990227


意外というか、面白かったのは、樋口さんのこのあたりの物言いが、5年くらい前に一部のゲームファンの間で叫ばれていたものに酷似していることです。いまとなっては、彼らのその気持ちも屈折しており、樋口さんのような物言いではもはや「素人っぽい」と思われかねません。

ただし、映画そのものに対する造詣が、樋口さんとゲームファンでは圧倒的に違う。それは、映画的なゲームを作っていると目される、あの人とあの人の差でもある。映画に対するコンプレックスというのは、わりと簡単に口にされますが、その造詣抜きには本来ありえない。そうでなくたって、CPUが8BITのころからそういうことを考えていた人とCPUが32BITになってから色気づいた人に、まったく差がないとは思えない。

だからこの場合も、知りすぎた者とまったく知らない者が、わりと似たことを喋っているだけだと考えるべきです。あと、泥酔中かつゲロだし。それにしても、ゲロのお詫びでこの業界に入ったというのは、もしかすると自慢話なんでしょうか。

■19990226


設定(世界観)がわりとトンデモ的だとか、ムービーだけは圧倒的だとかの話は、プレイしていないこちら側にも漏れてくるのですが、250万を超える人々がTVの前でパッドを握ってこのゲームをどのように楽しんでいるのかは、さっぱり想像できないです。

いわゆる「ゲーム」として見たら、誰もが差別的にならざるを得ないゲームでしょう。だからひとまず、いわゆる「ゲーム」以外の何か(たとえば、映画的なゲーム)だと250万人がいうのです。だから私は、いわゆる「ゲーム」として見て揶揄するのではなく、また「ゲーム」以外の何かだという感覚も薄くて、たんにVIIIよりThe Movieの方が気になるのです。

■19990225


更新が滞っているのは引っ越しのため。まだ終わらない。諸々すべてが落ち着くのは3月中旬あたりか?

パワーストーンは、悪くはないんだがちょっと残念なデキ。そのくせ雑誌ではなかなかの評価なのでわりと不可解。

遅ればせながらDDRをやる。なるほど面白い。ただし、難しい曲は一回やっただけで懲りた。向上心がないといわれればそれまでだけど、それはゲームのひとつの楽しみ方にすぎないと思う。じっさい、「足」のマークがみっつかよっつくらいの曲をきちんとこなせたら、もうそれだけで満足できる。この満足感はBMになかった。気に入らない曲ばかり、でもDDRならぜんぜんOKです。

■19990210


カプコンの岡本吉起さんがえらくドリームキャストに入れ込んでいることは、機種別専門誌のインタビューなどでたいへん有名です。新ハードの立ち上げに際して目立つことはなにより重要ですから、個人的な思い入れを切り離した会社の方針としても、そのことはだんぜん正当化されると思うのです。だから、普通はそれを岡本さん流のサービス精神だと理解するわけです。セガという会社が好きだ、という話も含めて。

ただ、ストリートファイターZERO3をドリームキャストはおろかサターンにも移植するという決定は、サービス云々の次元を突き抜けている。D&Dは以前から出すといっていたのだからわかります。しかし、ZERO3をわざわざサターンでも出さなければならないという理由も義理も、カプコンにはないのです。理由も義理もあるセガですらそんなことしません。

■19990208


ゲームを企業の取引の材料に使うなとご立腹の方に申し上げたい。企業の論理にとらわれず、「ゲームは誰のものなのか」というわざとらしい問を立ててみせることこそ、マリーガルという企業の独特の論理であって、その動機も、セガの出した条件のそれと大差ありません。そんなことより、この記事が出る以前に「ゲームボーイカラーでサクラ大戦をやりたい」などと思っていた人間がいったい何人いたというのか。今回、「ゲームは誰のものなのか」という問はむしろマリーガルにこそふさわしい。

それにしても、これは本当に「対立」なのか。「社長」ではなく「制作総指揮」の肩書きで登場することは、「ゲームは誰のものなのか」という問への当てこすりだとしても、交渉の内容を、その一部とはいえ具体的にユーザーに公表することの奇妙さは残るのだし、マリーガルが先走ったのだとしても、それは将来取引がありうる会社からの信用をも失うことに繋がりかねない。どちらも、そんないい加減な会社だとは思えないのです。

すんなり「ゲームボーイカラーでサクラ大戦」という企画が立ち上がってしまうよりは、「対立」を経て結実した方が話題になる。「対立を越えて」というサブタイトルは、マリーガルを過剰に祝福する。今後のサクラ大戦の展開(ドリームキャスト等)を考えればセガにもメリットは十分にある。つまり「お芝居」という可能性もあるのです。

■19990203


たいていのライターや編集者は、何を批判しようが何を褒めようが、基本的に「立場」の枠の中で発言している。この「立場」は「役割」や「らしさ」などと言い換えてもよい。読者によって期待され与えられた自分の「立場」、何を批判し何を褒めるかという判断の大部分を、その「立場」から“学ぶ”のです。したがって、「立場」を裏切るような言葉は誌面から消えます。いわゆる歯に衣着せぬ記事も「立場」を決して裏切らない。これは説明するまでもないでしょう。

たとえばかつてセガの社員であったデジキューブの黒川さんの場合も、そのような「立場」を与えられたからこそ、現状シェンムーについて誰もが思うことしか雑誌の連載に書かないわけであり、それは凡庸さではなく「立場」への誠実さをあらわしているのです。

ただ、判官びいきのお面をかぶることすら「立場」的なものにすぎないと見えてしまう今は、「立場」への誠実さではなく、「立場」そのものを揺さぶる戦略がほしいと個人的に思います。


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