戻る


■19990130


ひとつだけ思い出しました。「恋はバランス」です。

たんなる「希望」ですが、まっとうなアクションゲームがほとんどリリースされない今(シューティングゲームにすら遅れをとっているというのが信じがたい)、ファイナルファイトのカプコンが世に問うパワーストーンが意外に楽しめたりすれば、状況に一石投じることにならないかしら。少なくとも、ルールが新しいというだけの対戦格闘ゲームよりはだんぜん意味がある。ちょっと期待しているのです。

ついでに、たんなる「要望」ですが、カプコンの対戦格闘ゲームのいわゆるVSシリーズに、ストリートファイター系VSヴァンパイア系という、あったってべつに犯罪ではないものがないので、上と矛盾しますけど企画としてどうか。最近はどこだってわりと安易ですし、いいじゃないですか。

■19990129


有名な話ですが、ドリームキャストのソニックアドベンチャーでは、ネットワークを利用してちょっとしたお遊びが行われています。たとえば年末年始には、サーバから「クリスマスツリー」「門松」のデータをダウンロード(ネットワークを介してビジュアルメモリにセーブ)すると、通常のプレイ時にマップのあちこちでそのグラフィックが表示されるといった具合です。それをソニックアドベンチャーのホームページでは「イベント」と呼ぶのですが、そういう「見るイベント」だけかと思いきや、実際に「遊べるイベント」も始まりました。「それ」をダウンロードすると、マップ上に6枚の「セガの看板重役」が巧妙にバラまかれ、出来るだけ速くすべてを探し出すという、一種の「オリエンテーリング」が始まるのです。

いずれにせよ、たわいないものばかりですが、だからといって片手間に準備できるようなものでもないので、ソフト発売後もソニックチームというのはサービス精神が衰えないのだなあでもナイツを忘れないでねと、ほとんど手放しで関心していたのですが、よく考えてみたら、こういうデータってなんとなく「消せない」のです。旬を過ぎた「クリスマスツリー」「門松」はすでにサーバから消えていてダウンロードできない状態ですし、だったらいらなくなっても「せっかくだから手元に残しておこう」と思うじゃないですか。だから更に一個必要になるんです、ビジュアルメモリが。

そういえば、かつて任天堂のサテラビューで配信されたスクウェア謹製のゲーム「スクウェアの弟切草」「スクウェアの美少女スゴロクゲーム」は、その正式なタイトルを思い出せないことからもわかるとおり印象が希薄かつゲーム自体も平凡そのものであったために当時の判断で削除してしまったけれど、まあちょっとはもったいなかったかなと、今になって思った。

■19990125


22日付けの読売新聞朝刊に例の台場の事件を伝える記事があるのですが、少年が発した言葉に続く地の文、「二人以上殺したら、死刑にしなくては」や「汚職も罪を重くすべきだ」にはなどとわけのわからないことを口走りと、「政府要人に会わせろ」や「テレビ局を呼べ」ではなどと要求と、それぞれ“含蓄のある解釈”がしてあって痛快。ていうか、悪質。

■19990124


きっかけは次のようなこと。たとえば彼がBeを快く思わない理由というのはいちおう理解できる。それほど難しい理屈ではないし、個人的にも賛同する。ただ、主張があり→その理由が提示されて→納得に至る、というような道筋とはべつのところに拘束力の強い回路があって、その回路では依然として、たとえば彼がBeを快く思わないということが理解されていないのではないか、という仮説です。しかも彼の場合、そうしたことがBe以外でも頻繁に起こっているように思える。そして、その回路の中でとくに理解に苦しんでしまうのは、実は昔からのOh!Xの読者なのではないか。

そのような観点からOh!Xである、ということを書いてみました。ほんとうは、Oh!Xのバックナンバーはもちろん、ウェブでの発言などもばっちり参照した上で本格的な人物論にしてみたいのですが、それだといつ書き終わるのかさっぱりわからなくなるので、かなり手っ取り早いセンで決着をつけてしまいました。ただ、しばしば自閉的だと称される68文化における彼の位置というものを、外部の批判者はもちろん内部の者(というかその熱心な読者)までが勘違いしていたという可能性の扉が、少しは開けたのではないかと思います。

■19990123


今度のリアルサウンド(ドリームキャスト版)はイメージ映像(表示の有無は選択できるそうな)が追加されるんだとか。映像を排除したぞとばかりに鼻息の荒かったサターン版と較べて、違和感がなかった場合に誰かが困らない?

日本でもようやく出ますねワイプアウト64。何より「64でワイプアウト」が一番ピンとくる感じがします。

過日発売されたプレステのバックギャモンがちょっと気になっている。テレビゲームのバックギャモンは、この他ディスクシステムのしか記憶にない(こっちは発売日に買って遊んだ)。種類がないから売れないのか、売れないから種類もないのか、いずれにせよ事情はあるはずだけれど、5800円はとまどうのに十分な価格だと思う。

■19990122


某新創刊ゲーム雑誌の某記事より引用(病気)。
ただひとつ不満なのは、この世界のことを“箱庭”と表現している人が多いことである。プロデューサーである宮本氏も、ある雑誌でそのような表現をしていた。おこがましいようではあるが、私はプレイ中、一度も箱庭、つまり作られた模型のような世界を動き回っているとは感じなかった。あくまでもうひとつの自分の世界を冒険していたのである。私はこの作品に敬意を表する意味も込めて“もうひとつの世界”と呼ぶようにしている。
いってしまえば、“箱庭”と“もうひとつの世界”の間には、任天堂のオフィシャルな単語かそうでないかの差があるだけであり、“箱庭”と表現している人が多いのも、いまやそれがオフィシャルな安心して使える単語だからに他なりません。

“箱庭”は拡大解釈されます。だから、引用にあるような書き手の感慨を“箱庭”でエミュレーションすることは可能です。いまあえて“箱庭”の解釈を「ふりだし」に戻すとしても、宮本氏自身の謙遜を言い当てることくらいにしか役立ちません。

おそらくこれだけは避けていたのでしょうけれど、敬意を表する意味も込めて“もうひとつの世界”と呼んでみてもなお、結果として書き手は、“箱庭”と表現している人たちと意味的に同じ役割を演じています。不満は、何ひとつ解消されていません。

それにしても、どうしてこんなことになってしまうのか。「このボリューム感で6800円はめちゃくちゃお得だよね」というフレーズが、いまとても懐かしい。

■19990119


どう考えてもゲームなんてやっちゃいない文章が続いていて、先日dotimpact氏との電話で、そういえばという感じでのお叱りをうけた。とくにあやまるつもりはないけれど、自慢にならない傾向だと自覚はしている。ゼルダも「水の神殿」手前あたりでストップしているし。

ところで、ドラゴンクエストモンスターズだけはぼちぼちと進めている。「進めている」とはいっても「一気に時間をかけて」というプレイスタイルが個人的に過去のものとなっているので、トータルのプレイ時間はきわめて少ない。5分でも10分でもプレイ回数だけは滞っていないという程度の意味として「進めている」、というのが真実。

モンスターズといえば、ファミ通の永田さんが「ソフトウエアインプレッション」で書いていた。雑誌が手元にないので正確な引用はできないが、このゲームはノスタルジーだけで成立しているのではなく、最新のハードでなければ作り出せない最新の表現があるということと同じように、旧来のチープなハードでなければ作り出せない“最新の表現”というものもあって、それもこのゲームの成立要因として重要なのだ、というふうに私は解釈している。

永田さんが書いていたことはおそらく正しいと思う。そして、その正しさを、私はそういった解釈で飲み込んでいる。だから、等式ではありえない。これが大前提。

それにしても、と私は思う。ここで旧来のチープなハードを掲揚してみせる永田さんの手つきというのは、「ゲームの話をしよう」でゲームデザイナーと向かい合うときの永田さんの“やさしさ”に通じるものだ。そしてその“やさしさ”に、私はしばしばうんざりさせられる(それ、いいすぎ)。

かつて「ゲームの話をしよう」の中で、永田さんは“プロのゲーマー”にインタビューしている。■19981205でも話題にした。新しいものしか認めないしプレイもしないと豪語するその“プロのゲーマー”に対して永田さんは、だったらあなたがいまプレイしているゲームの数は多すぎないか、というようなことを「遠回しに」指摘した。この指摘は決定的に正しく、その“プロのゲーマー”に反論の余地はない。しかし“プロのゲーマー”は指摘の後も、自分の気分を平気で言い連ねる。

むろん、この“やさしさ”は意図されたものだ。欄外「よもやま話をしよう」にもその断りがある。そして、その“やさしさ”が単純に個人を向いている場合は、私の「うんざり」も、たんに好みの問題だと片づけなければならない。しかし、それが個人ではなく作品に向いた場合はどうか。

モンスターズへ戻る前に、ひとつの例を。同じく「ゲームの話をしよう」の中で、永田さんは“3D格闘ゲームを作り続けている男”にインタビューしている。そこでふたりは、新しいルールによって(必然的に)疎外されたユーザーがそのソフトのヒットを妨げる、というような一般論を口にしている。たしかに、そういうことは起こりうるだろう。けれど、その一般論に具体的なひとつのゲームをあてはめる場合、人は慎重にならなければならない。なぜなら、新しいルールを作り上げることと、その新しいルールが単独でどれほどの説得力を持つかということは、基本的にべつの問題だから。「ボタンでガードする」というのは間違いなく新しいルールでしたが、たんに新しいルール「だったから」評価されたのではないということ。“3D格闘ゲームを作り続けている男”の最新の作は間違いなく新しいルールを内包している。そして、このインタビューはそれだけを確認しているにすぎない。

あくまでもドラゴンクエストモンスターズの話である。旧来のチープなハードを掲揚してみせる永田さんの“やさしさ”は、正しくはあっても、それが機能する範囲は限られてくる。逆説は、そもそも逆説を望む人間にしか機能しない。いや、永田さんはたぶんそれを知っている。だとすれば、永田さんのこの“やさしさ”は無償の愛ではなく、このゲームのノスタルジックな側面をことさら否定的に取り出そうとする人間への反抗だ。

私は、よりによってドラクエで、そのような「つばぜり合い」を演じたくない。だから、たんなる開き直りと受け取られてもかまわないという心づもりで「ノスタルジーのどこがいけないのか」というつもり。そういってしまった方が理解もしやすい。ドラクエの変わらなさというのは、やっぱりそういうことじゃないかと思う。

■19990117


■19990116の引用で「彼」は、「マヌケ」でも「ブザマ」でもなく、それこそ「当初から」「杞憂であった」といっているのではないか。そう考えた方が、語義を知らずに使ったなどというあからさまな不名誉を前提としないぶん“紳士的”なはず。

ところで、「杞憂」とはいうまでもなく、余計であったと事後的に判明し解消される心配、すなわち取り越し苦労です。したがって、「当初から」「杞憂であった」という一連は、事前・事後の区別がごっちゃになっています。引用全体としては、事前が事後に押されているという格好です。これを“紳士的”にとらえると、この引用では事後のみが話題になっている、となります。つまり「当初から」がおかしい。しかし、これも“紳士的”にとらえるべきなので、「彼」があらかじめ「杞憂」を予知していた、と認めてしまいましょう。では、当初から心配していなかった「こと」が、後になってから改めて心配には及ばない「こと」として認識されうるのか?

プレイ以前のいかなる断言も許さないという立場の人間がいる。だから人は妥協する。私だってする。そして「彼」も。このゲームは大丈夫だ、心配なんてはじめからなにもない。本当はそう思いつつも。「彼」は、ごく自然に「私は心配していたのです、でも、プレイしてみたら、いいえクリアなんてしてません、ほんの数十分やっただけ、それだけでそんな心配は吹き飛んでしまったのです」と作り話をする。自分の気持ちに嘘をついて、他人への配慮を手に入れる。しかも、予定調和的な「心配」をあらかじめ冒頭に配置したことで、たんに素晴らしいゲームだと書くよりも客観性と説得力が増し、ちょっぴり刺激的にもなる。これは、物語的なもっともらしさへの配慮。これは、ついてよい嘘。素人には書けないプロの文章なのだ。

むろんこれは仮説にすぎません。「当初から」「杞憂であった」という奇妙な書き方で、予定調和的な「心配」を、無意識的に告白している、とまではいいますまい。ただ、素人には書けないこのプロの文章とやらを、私はたいへん退屈だと感じる。そして、客観的でないとか公平でないとかいうことよりも重大な問題が、ここにある。私がいいたいのは、つまりそういうことです。

■19990116


某新創刊ゲーム雑誌の某記事より引用(最近こればっか)。
実は、当初からこれが最大の杞憂であったのだが、数十分間プレイしただけで無用の心配であることに気づかされた。
「当初から」「杞憂であった」はずなのに、なぜプレイ後に「無用の心配である」と「気づかされた」などと繰り返すのか?

この疑問は、一般的には、「杞憂」という言葉の意味をうっかり取り違えているだけで真実はその後半にあるし、「杞憂」と「心配」を入れ換えればなんの問題もない、というセンで決着しそうです。たしかに、うっかり取り違えていただけなら、それはたんに「マヌケ」ですみますが、「杞憂」という言葉が使いたいだけでこんな失敗をしたのなら、それは「ブザマ」です。

そのように、「マヌケ」か「ブザマ」のどちらかではあるんですが、それを指摘したいだけではありません。

■19990113


1998年のビデオゲーム #2 メタルギア・ソリッドに共感。

ゲームにかぎらずおよそ効果的な「映像」は、そのほとんどが「映画的」と呼ばれる可能性を否定できません。そして、その「映画的」の一言が、映画との「距離」にとらわれているうちは、それこそコンプレックスの段階だといえます。ところが、「プレイ中のゲーム画面にクレジットをかぶせる」という「映画的」なデザインは、その「距離」を無効にしています。なぜなら、そんな映画はどこにも存在しないからです。

■19990112


RIDGE RACER TYPE 4をジョグコンでプレイ。なんでも、人間のねじる力というのは相当強いらしく、それに負けないだけの重いハンドルを実現するため、相応の力しか掛けられない(力を入れづらい)ジョグコンのようなものになったらしいのですが、これ、言い訳としては適切だけれど、取引としてはバランスが悪い。ようするに、あたかも自動車のハンドルを切っているかのように「錯覚できる」ネジコンに対して、ジョグコンの重いハンドルという単刀直入な「リアリティ」は、そのネジコンの「錯覚」を捨ててもぜひ手に入れたい「リアリティ」といえるのか疑問だということ。ネジコンのように錯覚できないことを批判しているのではなく、そういうさじ加減というか割り切り方がネジコンに負けているということです。

ちょっとだけフォローしておくと、ジョグコンは十字ボタンを採用しているので、プレステのパッドとしては画期的にアクションやシューティングに向いているかもしれません。あとアルカノイドとか。

グランプリモードをプレイすると、レースパートとストーリーを追うだけのアドベンチャーパートが交互に発生します。このアドベンチャーパートでの、ウィンドウ表示のアニメーションや全体的なノリというか間のようなものが、リバーヒルのかつてのアドベンチャーゲーム(パソコン版)っぽくて、個人的に気に入りました。

「デザインに気を使いすぎて」と好意的に受け取っておきますが、RIDGE RACER TYPE 4は全体として、プレイヤーが画面から受け取るべき情報がたいへんわかりにくい。とりあえず私が首をひねったのは、これと冒頭のジョグコン、この二点だけでした。

■19990109


とあるパソコン誌の編集後記より引用。
ゼルダ買いました。けど、64持ってません。タイタニック買いました。まだ見てませんし、未開封。R4買いました。でも、やるのは一緒に買ったかまいたちばっかり。
買ったかどうか、プレイしているかどうかにだけ触れたこの文章は、「魅力」「焼き回し」のようなもっともらしい理由(もっともらしいのは単語だけで中身は空っぽであることを■19981227で説明しました)を持ち出さないだけ、まだ救いがあるように思います。

ところで、そうした救助の可能性を左右する違いがあり、またそのことが両者の区別を可能にしているにもかかわらず、べつの視点からは、両者はまったく同じ姿をしているといえます。「AでなくBでもなくC」という、文章の構造がそっくりなのです。

これはどういうことか。「魅力」「焼き回し」のような空疎な理由は、救助の可能性を左右するだけでなく、C並びにCを選んだ自分自身を誇大に提示する(同時にAやBを実際よりも卑小に提示する)という書き手の思惑を、かなり容易に想像させます。そして、同様の想像は、もはや「AでなくBでもなくC」という、文章の構造だけからも十分に可能なのです。

■19990108


新年。今週号の「VIPたちの本音'99」より引用。
じつはゲームボーイカラーはファミコンのソフトがすごく移植しやすくできてるんです。1度開発経験のある人はスムースに作れると思いますよ。
そうでしょう。そうでなくちゃいけません。よくわかっていらっしゃる。


KFB01364@nifty.com