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■19981227


とあるパソコン誌の編集後記より引用。
Dreamcastには今のところ魅力を感じず。Nintendo64のゼルダ64はマリオ64の焼き回しにしか見えず。結局、ゲームボーイカラーを買って、電車の中でポケモンやゼルダをプレーしている。(以下略)
べつだん、「魅力を感じない」と断じたことや、「焼き回し」呼ばわりしたことを根に持って引用しているのではありません。むしろ、実感としてそれは大切にしていただきたいと思う。さらに、ほぼ全面的に賛同する用意だってある。ただ、「魅力を感じない」「焼き回し」などといった文章に、私はほとんど「魅力を感じない」し、「焼き回し」的な月並みさを感じます。

Dreamcastに魅力を感じないというのは、いまのところ多数派の意見です。ゼルダ64がマリオ64の焼き回しだというのも、製作者の宮本茂氏が雑誌のインタビューでそれとなく解説している、周知の事実です。つまり、どちらもわかりきったことだけが書かれている。それに、「焼き回し」という不名誉な事実にもかかわらず、その不名誉自体は最終的にゲームのおもしろさと無関係であることを、他ならぬこの編集者自身が、「ゲームボーイカラー」で「ゼルダをプレーしている」と、いみじくも証明してみせてくれている。これは、ビッグネームに対する評価としてならそれなりに刺激的であろう「焼き回し」という言葉の射程距離について、この編集者があまり意識的に考えていないことの証左です。

Dreamcastに魅力を感じなかったり、ゼルダ64をマリオ64の焼き回しだと見たり、結局ゲームボーイカラーを買ってしまったりすることひとつひとつの凡庸さと、相互の関係のなさは、まったく世間話のレベルです。もしこれで、買い物メモ以上に意味ある言葉を書いているつもりだったら、ちょっと救えない。

■19981226


パトレイバーサウンドリニューアル版の上映会。おまけで流れた実写版パトレイバーが印象的だった。とはいえ、その実写版が素晴らしかったからというより、たんに初めて観る映像だったからかもしれない。あるいは、先行するアニメ版を前提とした実写版にまとわりつく、一般論として誰もが知っているあのいかがわしさからすれば、思っていたほど違和感がなかった、ということだろうか。ともかく、ひとつの作品としてこの実写版パトレイバーを完成させてほしい観てみたいという気分にはなれた。

■19981224


もう一本くらいカラー対応ソフトが欲しいと思ってお店へ。予想に反してけっこうたくさんある。買ったのはグローカルヘキサイトZELDA DXは今度)。先行するWindows版からの移植(体験版がここに)ボード版もある。どっちも知らなかった。コンシューマの新作で、こういうアクション性のないパズルゲームはめずらしい。個人的には今年いちばん面白かった新作パズル。ところで、手持ちの駒を増やせる「ラッキーイベント」は、ちょっと意味づけが弱いと思った。

■19981222


テレビ東京のニュースにて。ロボットコンテストの話題で「製作者が学生だけに故障も続出」というくだりは、いくらなんでも失礼だと思った。

■19981220


色のあるよろこび。ひかえめな満足感。あとは、まるっきり新作のアクションゲームと、ファミコンの名作に置き換わったゲームボーイギャラリーを、カラー対応でやりたいのです。

■19981217


ドラゴンクエストモンスターズは、思っていた通り「想像以上にドラクエ」だった。「想像以上」というのはつまり、ドラクエ以外の何かにしない、というその徹底ぶりを指す。中途半端な「新しさ右翼」が苦々しげに見い出す有名ソフトの影(類似)とやらはたんに状況の問題であって、作品としては誤差の範囲に収まる問題でしかない。ドラクエの新作、しかもファミコン版の。そう考えて一向に差し支えないはず。

■19981213


ZELDAはとても語りにくい。あまりにも身近すぎて、つまり相対的(他のゲームとくらべたら)に出来すぎていて、言葉を失う。言葉を失ったのは「いま」「ここ」の私だから、それでもなんとか語りたければ、もうハイラル日記しかない。
×月×日
ルト姫からゾーラのサファイアを譲り受けた。婚約指輪がどうとか言っていたが、これを持ってべつの女のところへ行かなければならない、ほんとうにゴメン。
×月×日
今日、自宅に戻ったら牛一頭が届けられていた。あの女の子からだ。

■19981212


今週号の「クリエイター列伝」より。なんというか、徹底的に参考にならない人だと思った。読者や編集部は、その人に固有の「ゲームの原風景」を“参考”にしたいと願っている。しかし、そういうものが欠片も見当たらない。“徹底的”というのは、たんなるパフォーマンスでそうしていない、ということ。意地悪をしているのではなく、そういうものがたぶん始めから存在しない人なのだ。今回のインタビューだけでなく、亙という人はいつも“参考”にならない。その意味では、飯野賢治氏の発言はいつもわかりやすい。「率直さ」というか、その一般的な評価としての「過激さ」まで含めて、十分に、あるいは退屈なほど、わかりやすい。

■19981205


今週号の「ゲームの話をしよう」より。類似ソフトが「ある」ということと、自分が類似ソフトを「知っている」ということは、基本的にべつの問題です。新しさが基準になるというのなら、同時代の新しさと新しくなさすべてを把握していなければ本当ではない。把握に少しでも落ち度があれば、態度が基準を裏切ることになる。そこで態度を優先すれば、新しさが捏造される。ひたすら基準を優先し、新しさのみにこだわる、そういう「右翼」になる覚悟があるのか。

■19981204


じつは私も、なんの注意もなく「トライアスロン」だと思っていましたよ。■19981113にもいったんそう書いて、翌日ふと雑誌を見て気づき、慌てて「トライアイスロン」に修正しました。


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