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■19981030


どこからともなく資料を持ってきて、この数字はこれこれこういうことを意味しており、したがって今後はこれこれこうあるべきだ、というような議論のやり方って、まんまどこかの団体みたいでしょうが。そういう議論のやり方は、そのどこかの団体とすればいいのであって、自前の資料なんて持っているはずもない、したがっておなじ議論のやり方ではまともな判断などできない、子ども同然の一般人には「われを信ぜよ」というに等しい。でもたいていは、資料と数字を巧みにあやつる業界人っぽいそのふるまいに恐れ入ってもらえるからいいが、たまに私のようなひねくれ者がいると、結局、自前の資料を出せといってガチガチにかたくなってしまう。ああもう、まんまどこかの団体みたいでしょうが。資料じゃなくて調査? 同じでしょう。それに、調査の内容なんて、その調査が「誰によって行われたか」でだいたい決まります。調査の内容と、それに対する評価基準が、前者は客観、後者は主観、というふうに分離しているだろうなんて、ずいぶんタチの悪い冗談を信じているんですね。

■19981029


あいかわらず「テレビでどんなゲームがやりたいか」に答えることはできませんが、現物を提示されると途端に「わかって」しまう。でも、いきなり結論に到達してしまうので、その「わかって」しまう過程については依然、答えられません。ゼルダのCM。ひとりっきりでゲームに没頭する人物が描かれている。しかしいわゆる「暗い感じ」はない。どちらかといえば「ヤバい感じ」がします。とくに、アクション動作を自分なりのリズムで会得しようと努めるところなど、客観的にかなりアブナイ状態だといえます。しかしここに「わかって」しまった者の姿がある。ゲームのウリやキャッチフレーズを聞かされなくても、「ゲームでしか味わえない感動」がたしかに伝わります。「ゲームでしか味わえない感動」の記憶に、訴えかけてくるからです。

■19981023


最後のです、私が考えているのは。わりと当たり前ですけど、「テレビでどんなゲームがやりたいか」は、自分自身の問題です。そして、本来、私たちは、そこからしか考えられない。そこから考えられているなら、あらゆるテレビゲームの根拠は、すべて正しいはずです。しかし、そうやって自分自身の問題を考えてみるのは、もしかするとすごく恥ずかしいことなのかもしれない。少なくとも、他人には話したくないと思うかもしれない。そこで、たとえば「テレビゲームはこうでなければならない」というような語り口が生まれます。あるいは、A氏B氏のような会話がそうなりやすいのですが、相手に対する反論それ自体を、テレビゲームの根拠へとすり替える。ユーザーの「ライトとヘビー」、ゲームの難易度の「イージーとハード」など、対立関係からテレビゲームを規定しようとする。これは■19981005にも繋がります。彼らは、彼ら自身が抱えるテレビゲームの根拠を、彼ら自身の手で歪めている。これが私には我慢できない。

■19981021


だとすれば
A氏「最近のRPGはあんまりやりたくない」
B氏「なんで?」
A「綺麗な動画が観たいだけなら映画を観るし、物語に感動したいだけなら小説を読むから」
B「綺麗かどうかは見れば判断くらいできるからまあいいけど、感動できる物語かどうかなんてやってみなくちゃわからないだろ? もしかしたら小説よりも感動できるRPGがあるかも」
A「それはそうだけど」
B「だったら、自分が感動したから言うんじゃないけど、ファイナルファンタジー7の物語に感動したという人は多いよ、やってみたら?」
A「いや、そういう問題ではないんだ」
というようなやりとりがあったとして、A氏の不満は「感動できる物語だったり、綺麗な動画が観れたりするだけで、どうしてゲームをやらなくちゃならないんだろうか」というところにあるが、B氏の不満は「やりもしないで、動画では映画に物語では小説に劣るなんて、ゲームに対する偏見だよなあ」というところか。この事例では、A氏が一方的に議論を打ち切っているので、B氏の方が不満も大きく、したがって相手の意見に何らかの評価判断を下すための勇気も、B氏の方により多く湧いていると思われる。それに、こういう事例でアンケートを取れば、大抵の人はA氏にイエローカードを出す。しかし、太字にした部分からも明らかなようにこれはまったくのすれ違いであって、この状態で相手に何らかの評価判断を下すのは、おそらく健全なことではない。A氏は冒頭のリンク先 それは「ゲームであること」をアフォードしている をよく読むこと。B氏と「大抵の人」は少し待ってあげること。

■19981020


「リアル」と「リアリティ」がまったくべつの状態を指していることは明らかですが、「リアリティ」を突き詰めれば最終的に「リアル」へ行き着くのではないだろうかというような希望的観測は、「リアリティ」の足場の悪さに基づく、危険回避的な誤解だと思います。というのも、これはおそらくゲームに限らないのではないかと思うのですが、およそ空想されるものは「リアリティ」に富んでいて、その「富んでいる」ということ事自体に疑いの余地はないのだけれども、しかしそれを「リアリティ」だと言い切れる根拠はどこにも見当たらない。その無根拠さを、おびえないでそのまま受けとめることができるか、あるいは、ごく恣意的に「スプライトとポリゴン」「2Dと3D」というような対立関係を導入し、「リアル」への道筋を用意しなければ受けとめることも叶わぬか。ゲームが錯覚であるという事実は、後者のような憶病者によって忘却されます。

■19981019


リニューアル。不用だと思われるものや個人的に興味のほとんど失われてしまったものなどを削ぎ落とした。読み物をひとつだけ改訂(旧「ゲームをめぐる言論について」が「モラルとイメージ」に)。知り合いにここの存在を知らせた。

■19981014


9.26/1998のクラフトマンシップ「疑えないのならば、アルゴリズムであれランダムであれそれはゲームだ」は、しばらく考えてみたけれど、じつは画期的なスタンスなんじゃないかと思った。というか、途中まで読んで、ああこの理屈で「脱衣マージャン」がゲームとしてようやく救われるなあ、と思った私にはその新規性がわかる。ちょっと前にパソコン誌の投稿ページで、ゲームを批評する際にはゲーム性を重視すべきだというような意見を読んですごく情けなくなったんだけれども、投稿者はそこで、ゲームを批評する者がゲーム性をまったく軽視していると主張するのではなく、誰もが重視しているのだが自分の判断ではまだまだみんな不徹底だということを言っている。これのどこが情けないのかというと、投稿者のような主張はとくに目新しいものではなく、むしろこれまで長期に渡って君臨してきたスタンスであるのに、そこから決定的な言説が生まれた試しがない。したがって不徹底さが問題だというより、もはやその座を明け渡すべき死んだスタンスだということ。理屈としては合っていても、それでこぼれ落ちてしまうゲームがあるのでは意味がない。そうすると、たいていは「面白さは人それぞれだ」という穴蔵に引きこもって勝った気になるというのが一般的ですが、そこんところを跳躍してみせる意気込みが、ゲームを批評する際には重要で、画期的とか新規性があると私が思うのも、既存のスタンスを全く借りないで、たとえばおよそゲーム性とは無縁の「脱衣マージャン」を、ある種のゲームとしてあっさり肯定してしまったことが、優れて批評的な所為だからです。

■19981012


(このウェブページは誰にも教えずほそぼそとやっているので、フォローとしては機能しないかもしれないけれど)dotimpact氏。岩井俊雄さんに対する私の「基本的にぜんぶパラパラまんがだ」という感想は、個人的な確認であって、評価ではないです。むろん、そのような感想から否定的な見解を引き出すことはたやすいですから、私も気を付けなければいけませんが、たとえばあなたの「ミニゲーム」が「ボーナスステージ」でないなら、それは何だろうを読んで、たんにミニゲームを否定しボーナスステージを肯定したものだとしか思われなかったら悲しいでしょう。まあそのあたりの事情は、岩井俊雄さんに対する今回の私の感想なんかよりも、インタラクティブシネマトグラフと比較しなければならないでしょうが。てことは、やっぱり今回の私の感想が迂闊だったのか。

■19981005


それをいうことでいったいどのようなゲームデザインを退けようしているのかは理解できるし、半分は賛同できる。しかし、「ゲームの軸」は「勝ち負けの条件である」とは、ずいぶん枯れたご意見だ。「基本」とか「本質」とかおっしゃるが、そのことをあまり強調しすぎると、その「基本」やら「本質」やらをたんにはぐらかしただけのゲームデザインが斬新だとみなされるようになる。つまり、そこでいう「ゲームの軸」みたいなものは、そこで退けようとしているゲームデザインをむしろ呼び寄せてしまう。二元論的なゲームデザイン、そして両者は「パラッパラッパー」や「インテリジェントキューブ」のようなゲームを、自分たちの側に引っぱり込もうと躍起になる。著しく滑稽な共犯関係の成立。いずれにせよ言えるのは、「ゲームの軸」は「勝ち負けの条件である」というような理論では、いわゆる箱庭的な、触れているだけで楽しめるゲームを定義できない、ということ。ゲームの楽しさをほぼ半分捨てることになる。「半分は賛同できる」というのは、この捨てられていない部分を指すのみ。

■19981001


復活記念日。


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