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シ ン ク ル ー チ ン
release : 10.5/1999|update : 10.6/1999



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#11 シーケンシャル・コンシステンシー

featuring 「」(CHUN SOFT/Saturn, Playstation)

■チュンソフトのサウンドノベル第三弾「」には、複数の並行するシナリオの一つ一つをそれぞれの終わりに導くため、そのシナリオの、あるいは他のシナリオの(!)さまざまな分岐局面を正しく選択していく、という「ゲーム」と、複数の並列するシナリオを任意のタイミングで「乗り換え」していくことで、「街」というドラマを味わう、という「ゲーム」があって、ふたつは別のものであり、それぞれ前者には「マルチフラグメント・システム」、後者には「ザッピング・システム」という名前が付けられている。今回ここではこのふたつのシステムがというゲームにおいてどうあったか、ということを書いていくつもりなのだけど、その前にまず「サウンドノベル」がどうあったか、について。

■そもそもそれはゲームではないとか、あるいは従来のアドベンチャーゲームを簡易にしたものであるとか、そういった言いかたを避けるなら、「サウンドノベル」というのは、テキストを読み進めることによって、あるストーリーを「選択(体験でもいいんですが)」していくという「ゲーム」であるように思う。もちろんそこには用意されたシナリオしかないわけだけど、その用意されたシナリオの連続性(とその面白さ)と、プレイヤーのプレイ(つまり、テキストを読み進めること)の連続性(とその面白さ)とは、「必ずしも同じではない」はすだ。「サウンドノベル」をプレイするわれわれはそう信じているんじゃないか。すでに言われている、「原理的には『サウンドノベル』にマルチシナリオは必要ない」とする説を、僕はその意味で支持するものだ。

■さて。「サウンドノベル」の成立に関するこのような考え方を、「ゲーム」としてより高度に敷衍することができるとすれば。つまり、用意されたシナリオの連続性(とその面白さ)と、プレイヤーのプレイ(つまり、テキストを読み進むこと)の連続性(とその面白さ)とが、「まったく関係ない」ような「ゲーム」があり得るとすれば、それはにおける「ザッピング・システム」のようなものではないか、と僕は考えていて、これによって「サウンドノベル」は明らかに高度になっているのだ、と結論したいところなんだけど、じっさいにははあくまで「マルチフラグメント・システム」のゲームであって、「ザッピング・システム」のゲームではない、と言わなければならない。

■いちおう言っておくけど、そうだからといってがダメだ良くない、というのではないよ。プレイしてみれば、というゲームがどういうふうに面白いかなんてことはすぐにわかる。しかもその面白さは、ちょっとほかのゲームでは味わえないものだ。強いていうなら、こうやって理屈をつなぎながら文章を書いてるときの楽しみに似ているような、そんなゲームは他にないんだから。ただ、それはあくまで「マルチフラグメント・システム」の面白さなのだと、僕はここで書いておきたいし、加えてにおいては、「マルチフラグメント・システム」を成立させるために「ザッピング・システム」は、ある意味不本意な形で組み込まれている、ということもまた書いておきたい。

■僕の知る限りでいうと「ザッピング」という言葉は、テレビのチャンネルをリモコンで節操なく変えていくことから転じて、今ではほぼ「並列する複数のストーリー(とは限らないけど)を、任意のタイミングで切り替えることができるシステム」を指す言葉になっているものだ。そこにあるのは、それぞれで連続した複数のシナリオを、別の連続性に沿って自由に切り替えていく(あるいは、切り替えない)精神で、これを僕は「ゲーム」と呼ぶのにやぶさかではなく、における「ザッピング・システム」も本来このようなものだと考える。

■ところが。に組み込まれたもう一方の「マルチフラグメント・システム」は、それぞれのシナリオの連続性を絶対のものとする「ザッピング」とはまったく逆の原則を持つものなのだった。における「マルチフラグメント・システム」の、8人の物語とその交錯のパズル的な面白さは、あるシナリオのゆくえが別のシナリオに依存することで成り立っており、これはプレイヤーの自由な「ザッピング」を阻害する。複数のシナリオの「読み進みかた」に順序関係が存在するなら、それはもはや「まとめて一つのシナリオ」であり、そもそも「ザッピング」は不可能だと言わなければならない。われわれが「ザッピング」という「ゲーム」を楽しむとしたら、それぞれのシナリオのゆくえとは別のことを楽しむはずだ。では、そのような「ゲーム」が実現されているとは言いにくい。

■念のためにも繰り返すのだけど、それがの失敗だと言ってるんじゃない。おそらくそもそもが同時には成り立たないシステムなのは書いた通りで、「マルチフラグメント・システム」は間違いなく成功している(しかも、「ザッピング・システム」を押し出したゲームが今より面白くなる保証はまるでない)んだから、あえて触れる必要はないのかもしれないんだけど、どうもチュンソフト自身も区別をあいまいにしているフシがあるふたつのシステムを分けておきたいと思った次第。そして望めるなら、チュンソフトの「ザッピング・システム」による「サウンドノベル」もプレイしてみたいと思ったのだった。

《付記》ところで、ここで言う「ザッピング・システム」による「サウンドノベル」に近いものの一例を、われわれはすでに知っているはずです。それは古くはハイパーテキストと呼ばれ、現在は「????.html」というファイル名で書かれているものです。と言ってしまうとチンプですし、ゲームではないような気もしてしまうんですけど。でも、単なる文章間のリンクを超えて徹底的に「ゲーム」であるようなハイパーテキストを、まだたぶんわれわれは知りません。そんなゲームに、僕は淡い期待を寄せてみたいと思ったりします。












注釈とか余談
(引用をクリックすると本文へ戻ります)
サウンドノベル
古くはシステムサコムの「ノベルウェア」でも、leafの「ビジュアルノベル」でもかまいません。

原理的には『サウンドノベル』にマルチシナリオは必要ない
たとえば、ざるの会蓼沼氏の蓼沼日記(6/28)に、「ビジュアルノベル」において、実は「分岐」は必要ないのではないか、という指摘があります(厳密にはマルチシナリオの話ではないのかもしれませんが)。
「分岐」があれば、なんとなく「ゲームっぽく」なるように思えて、おそらくはそのために、「分岐」が導入されている、と考えられますが、極端な話、「分岐の選択」に「ゲーム」があるとは僕は考えません。


チュンソフト自身も区別をあいまいにしているフシがある
の各シナリオには、他のシナリオから「ザッピング」しなければその続きを読むことができない中断ポイントがいくつもあります。それが、どーも「ザッピング・システム」を「マルチフラグメント・システム」と同じものとして扱いたいという思惑を示すものに見えます。というのはそういうゲームなのだ、と言われたらまあそうなのかもしれませんが。

チュンソフトの「ザッピング・システム」による「サウンドノベル」
には、現在8人分のシナリオを最終的には100人にしようという構想があるのだそうで、「主人公が100人に増えた時に、初めて『』はゲームらしい仕掛けをしなくても自ずとゲームになるのかな、と思っています。例えば、ストーリーに時々出てきた宝くじがありますが、あれが色々な他人の手を渡って、"最終的に誰が宝くじを持っているか?"という命題が存在する時点で、無理な仕掛けが存在しなくなるのかな、と」(特集アスペクト「大人のためのテレビゲーム学概論」中村光一インタビュー)ということだそうです。


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