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シ ン ク ル ー チ ン
release : 12.28/1998 | update : 3.21/1999



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#5 1998年のビデオゲーム


言うまでもないけど、「1998年のビデオゲーム」というもの全体にたいしてなんらかの正しさで何かを言えるとは思わないし、そういうことに興味もない。そもそも、1998年にどんなゲームが出たかなんて、もうたいてい忘れてしまっているし。

それでも強いて「1998年のビデオゲーム」と題するこのテキストは、要するには発表当初なにがしか感じつつも何も言わないまま通り過ぎてしまったゲームについて、あらためてその思うところを書き残しておこうじゃないか、といういわゆる年忘れ企画なのだった。順次増えます。


1998年のビデオゲーム #1

レイディアント・シルバーガン

(TRESURE / Arcade, Saturn)

■かのポケットモンスターのデザイナーである田尻智氏によるゲームデザイナーのバイブル(かどうかは知らないけどいい本)『新ゲームデザイン』に、「ゲーム性のスイッチング」という考え方が紹介されている。本文にある例を引けば、たとえばゼビウスというゲームは、一つのゲームの中で「空中物をザッパーで迎撃するゲーム」と「地上物をブラスターで破壊するゲーム」が同時に進行していて、この並列して走るゲームを場面場面でプレイヤーにスイッチさせることで、一つのゲームとしての多彩なプレイが実現されている。つまり、ゲームの多層化がいわば総体としてのゲームを豊かにする、というゲームデザインの方法論だ。この方法論はまったくもって正しいものだと僕は思っているんだけど、この方法論に則ってレイディアント・シルバーガンというゲーム を考えると、僕にはどうも「奇妙」な感じがするのだった。

■「ゲーム性のスイッチング」、あるいはゲームの多層化という意味において、レイディアント・シルバーガンというゲームはとんでもない完成度を誇る。もうこれ以上ないというくらいに。プレイヤーは3つのボタンで操作する長所短所がはっきり分かれた7つの武器で、敵機を撃ち、ボスと戦い、弾を消し、障害物を壊し、シークレットボーナスを探す。敵機破壊順のパターンによってボーナスが発生し、連鎖することでポイントが累算されるため、時には敵機を逃がし、時には狙い撃ちするようなより効率的なプレイを計画することができる。ボタン単位で武器レベルが存在するため、使用する武器を適宜切り替えていくことでバランスよくレベルを上げることができる。レイディアント・シルバーガンに並列するそれぞれのゲームはデザインにしてもルールにしても単独で楽しめるほど完成されている。そして、それらは総体としてのゲームの充実を保証する、はず、なんだけど、どうもレイディアント・シルバーガンというゲームにはその「総体としてのゲーム」というやつが感じにくくなってるんじゃないだろうか。

■つまり、レイディアント・シルバーガンというゲームは『新ゲームデザイン』で言うところのゲームの並列化/多重化を「完璧に」成し遂げているせいで、むしろゲームのまとまりを欠いているんじゃないか? ということだ。しかもまとまりを欠いてつまらないわけじゃなくて、並列化/多重化された各ゲームは完成されているから、レイディアント・シルバーガンをプレイするわれわれはどの瞬間をとってみてもまちがいなく完成度の高いゲームをプレイしていることになる、というあたりがとても「奇妙」に思える。

レイディアント・シルバーガンは、非の打ちどころがないほど完成されたゲームにもかかわらず、「このゲームでプレイヤーは結局何をしているんだ?」という類の質問にはいまいち答えづらいという「奇妙」なゲームなのだった。


1998年のビデオゲーム #2

メタルギア・ソリッド

(KONAMI / Playstation)

メタルギア・ソリッドに対する評価のしかたというのはある程度定まっていて、他を圧倒する映像的完成度と、それゆえ目立ってしまうシナリオの映画的稚拙さ、というのがたいていの論調だった。結果的にはほめてたりあえて酷評してたり残念がったり、映画とゲームの関係についてこのゲームから書こうという文章をたくさん読んだ気はするんだけど、個人的には「映画とゲームの関係」について書くならこれしかないと思っていた、「プレイ中のゲーム画面にスタッフクレジットをかぶせる」というデザインについて書かれた文章には出会えなかった。問題意識がずいぶん違うのかもしれない。

■ゲームに「映画」を望む欲望というのは、つまるところ「それが自分のプレイするゲームであっても“編集された映像”として観たい」ということなんじゃないかと考えている。たとえばグランツーリスモは自分のプレイをかっこいいリプレイとして見せてくれるけど、リプレイを観るわれわれは「このリプレイがゲームだったらもっといいのになあ」というようなことを考えがちだ。グランツーリスモをプレイすること、リプレイを観ることそれぞれにはまったく不満はないけど、「本当にやりたいこと」は「リプレイのような映像でゲームをプレイすること」なのかもしれない。これが「映画のようなゲームがやりたい」という言葉の真意だと僕は思う。

■じゃあ実際にリプレイみたいな画面でゲームができるか、というとそんな簡単なものじゃないわけで、ここでいう「映画のようなゲーム」を成立させるにはいわゆる「映画的なカメラワーク」とか「映画的に完成されたシナリオ」とかよりもう一段上のロジックとか方法論が必要になる。とりあえず現状で簡単にできることはプレイヤーを「だます」ことだ。それがたとえばゲーム画面をビスタサイズにすることだったり、メタルギア・ソリッドみたいに「ゲーム画面にクレジットをかぶせる」ことだったりするんじゃないだろうか。

■「ゲーム画面にクレジットをかぶせる」というのはまったくもっていわゆるコペルニクス的転換というやつで、このデザインは2D/3Dとかゲームスタイルとかを問わず、どんなゲームに導入してもそのプレイを「映画的」にすることができるし、実際「そういうものをわれわれは観たかった(プレイしたかった)」に違いないんだ。べつにこれを「ゲーム制作者の映画へのコンプレックス」だと考える必要はないと思う。いや、逆だろう。映像的にすることがどうしても「映画的」になることから逃れられないなら、「プレイ中のゲーム画面を(映画のように)映像的にしていくこと」でしかそのコンプレックスを跳ね返せないはずだ。「映画をゲームにすること」のみが映画にできないことなんだから。

■ゲーム制作者はプレイヤーが望む「映画のようなゲーム」を追求して、そのための方法論を考え続けている。いつまでも「映画へのコンプレックス」とかも言ってられないと思うんだけど。


1998年のビデオゲーム #3

BAROQUE(バロック)

(STING / Saturn)

■ご存知のように、「ゲームのような物語」という言い方には、少なからず否定的なニュアンスが含まれる。ゲームは原理的には始まりから終わりに至る展開を予定できない。それどころか終わりそのものさえ必ずしも予定できない。いわゆる「物語性」にとってみればこれは単なる荒唐無稽だろう。ひどく乱暴な言いかたをすれば「物語」とは「始まって終わること」に他ならないのに対し、「ゲーム」とは「始まって終わらないこと」に他ならない。つまり逆だ。

■途中で勝手に終わってしまったり、しかたないから途中からやり直したり、そしたらさっきとは違うことになったり、とかいったことはゲームにとってはなんの問題もないことなんだけど、「物語らしい」予定調和にはふさわしくない。だから「ゲーム」を「物語」にしようとするとき、そのような不都合は極力「なかったこと」にしつつそしらぬ顔で「物語」を展開することになる。このいわば「物語のようなゲーム」とでも言えるような形式(というか約束事)によってたいていのゲームはつくられるわけだ。もちろんこれはこれで筋の通った話ではあるのだけど、それでも、「ゲーム」は「ゲーム」のまま「物語」になるべきじゃないのか、と考える。そもそも「ゲームのような物語」が荒唐無稽だとするのは物語の理屈じゃないか。「『ゲームのような物語』のようなゲーム」をこそ、われわれはプレイしたいんじゃないのか。

BAROQUEというゲームに感じる「妄想」は、たとえばそんなようなものだ。そして実際、BAROQUEではわれわれの知っている「ゲーム」こそを「物語」にしようとしている、と言えるんじゃないか。プレイヤーは世界の記憶を持たず、出会う人々の見覚えがなく、その話に脈絡を感じられない。終わることなく繰り返す世界は変化を続け、2度と同じ形を止めない。プレイヤーがそれを受け入れて、さまようことこそがBAROQUEの「物語」なのだ。

■陳腐な言いかたかもしれないけど、プレイヤーにとって「ゲーム」とは、ある“運命”に他ならないし、ある“運命”の顛末というのは、それだけで「物語」足り得るものだろう。少なくとも、「物語らしさ」を獲得することは「ゲームらしさ」を捨てることではないはすだ。挑戦は続けられるべきなのだと思う。

■ところで全然関係ない話になるけど、メタルギア・ソリッドのディレクター小島氏と、BAROQUEのディレクター米光氏には経緯と資質に似たところがあるように思う。両者ともMSXの頃からゲーム制作に関わり1998年に代表作となる作品を世に出したというキャリアとか、目指すゲームのヴィジョンが明確で特に世界の構築には妥協を許さないようで、その世界を破綻させかねないアイデアを平然とぶちこんだりするところとか。