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クレイジーたれ
No. by 綾茂勝太郎 [psp95.infosnow.ne.jp] at 2000/2/13(日) 02:08

DC版クレイジータクシーを買って、2時間くらいプレイしてみました。
前は意味がいまひとつピンとこなかった(ゲーム内容の説明がないので当たり前なのですが)
こちらの #14 ビデオゲーム : 1999 #2 の意味がようやくわかりかけてきました。
そんなところで、単純なことですがいつものように質問させてください。

>世界を「ゲーム」として好きなように遊ぶことそのものが「仮想世界の法則に、あるやりかたで従うこと」になる、というのがクレイジータクシーにおける「仮想世界とそこでのゲームのありかた」だと思うのだ。

の「好きなように遊ぶ」には、「客をまったく乗せないままゲームオーバーまで自由に走る」は含まれるのでしょうか。
仮にそれがYESだとしたら、それは「仮想世界でタクシーの運転手が行なうべきこと」に含まれるということでしょうか。
「行えること」ではあるけど「行なうべきこと」ではないような気がしたので。

あと本当に「世界から見て、プレイヤーは特別ではない」(正確にはプレイヤーではなくプレイヤーキャラクターは、という意味だと思いますが)のか疑問が残りますが、とりあえず置いときます。


No.311 by dotimpact [recoom] at 2000/2/17(木) 00:11

綾茂さんいらっしゃいませ。毎度どうも。感想いただけてうれしいです。例によって気分で書き散らしたような文章なんでいろいろツッコミどころはあるんだろうと思います。せっかくなので僕もあらためて考えてみました。

(例によって話が遠いところから始まって申しわけないですが)
僕が考えているのは、コンピュータゲームのプレイヤーにとって「それがゲームである」というのはどういうことか、というようなことです。

たとえば、野球というゲームであるバッターがボールが来てもバットを振らないことに決めたとします。野球というゲームはバッターがそういうことをしていたとしても、ストライクバッターアウトとか言われてルール上ゲームは進行しますね。でも、ゲームは進行するけど、たぶん多くの人はこれを「ゲームになっていない」と言うはずです。綾茂さんの言いかたを借りれば「『行えること』ではあるけど『行なうべきこと』ではない」ということになるでしょう。つまりこういうのが「全てがプレイヤーのためにあったり起きたりする世界」としての「ゲーム」だろうと僕は考えます。ピッチャーとバッターがいて一方が球を投げて他方がそれをバットで打つことにおいてのみ野球という「ゲーム」の世界があるんであって、そうしない行動は「ゲームではない」、というのは電車でGO!について言ったのと同じことです。

でも、ことコンピュータゲームに限って言えば、プレイヤーは「バットを振ってボールを打つこと」だけではなくて「バットを振らないこと」にも「ゲーム」を求めているのじゃないでしょうか。あくまでゲームとしての「仮想世界」というものを、僕はそんな風に考えることができるように思います。

もちろんそれは「ゲーム」であるから、そのゲームのプレイヤーとして「すべきこと」が設定されている。しかしその、「ゲーム」における「すべきこと」は、世界において「できること」の一つに過ぎない。プレイヤーが「ゲーム」において必ずしも「すべきことではないこと」を行っていても、やはりそれは世界において「できること」の一つである。世界が「できること」に対して平等なリアクションを保証するならば、「ゲーム」における「すべきこと」というのは必ずしも特権的なこととはならない。つまり、世界が「ゲーム」を包含している「ゲーム」、というものがコンピュータゲームにおいては考えられるんではないかと僕は思っています。たとえばクレイジータクシーというのは、そういうゲームではないかと。

もはや十分長くなってますんでこのあたりで。綾茂さんの問もふまえたつもりですけど例によってあんまり答えになってないかもしれません。ていうかもうちょっとわかるように書けよって言われそうです。ごめんなさい。よかったら、もうちょっと話を続けましょう。


No.313 by 綾茂勝太郎 [psp104.infosnow.ne.jp] at 2000/2/17(木) 13:02

あ、いや感想はひとことも書いてないですね。すいません。
感想書く前になるべく内容を理解したいと思いますので私はいつも質問になっちゃいます。

お答えいただきましたが、あまり理解は進まなかったようです。すいません。
いまのところ、「フトコロの深さ」の話か? くらいの認識しかないです。しかも違うかも。

電車でGO!との違いもよくわかってません。いや、自分なりにこの辺が違うという感覚はありますが、dotimapctさんがどの違いに着目されているのか不明なので。
たとえば「電車でGO!は止まらないといけない駅で止まらなかったらダメだけど、クレイジータクシーは客を乗せなくてもいいんだ」とは書かれてないので、そんな単純な話ではたぶんないのでしょう。

クレイジータクシーというゲームの捉え方についてもっと具体的な話をお聞きしたくて前のようにふったのですが、失敗しました。

>プレイヤーが「ゲーム」として行えるアクションはすべて「仮想世界でタクシーの運転手が行なうべきこと」である。

の「すべて」「べき」が気になるのです。
クレイジータクシーでできることは、すべてクレイジータクシーの世界の運転手が行うべきことになるのでしょうか?
“すべて「してもよいこと」”かもしれないが、“すべて「すべきこと」”にはならない気がします。

>「プレイヤーから見て、世界は『ゲーム』だが、世界から見て、プレイヤーは特別ではない」というようなデザイン

というのもいまのところはあまり共感できないのですが。
プレイヤーが他のゲームで特別なのにクレイジータクシーで特別でなくなっている部分はたとえばどんなところに見て取れるのですか。

私は具体例を求めたがるタチなので、
「たとえばこの部分はこうなっている。だからこのゲームはこういう性質を持っている」という論理だとありがたいのですが。
「この部分はこうなっている」という部分がなくて、自明なことにされてるような気がします。
語弊がありますが、根拠の部分が省かれて結論を聞かされているような。

>クレイジータクシーにおいてプレイヤーはタクシーの「運転手になる」のではなく、単に「ゲームをする」。

これで済まされてしまっているのですが、私にはdotimpactさんがどの部分を見てなぜ“単に「ゲームをする」”と感じたのかがわからない。
だからその先の論理についていけないのではないかと。

結局“クレイジータクシーにおいての”「すべきこと」「できること」とは何か、ということに言及されていないように見えるのですが。


No.314 by dotimpact [recoom] at 2000/2/19(土) 21:05

>「この部分はこうなっている」という部分がなくて、自明なことにされてる
>ような気がします。
>語弊がありますが、根拠の部分が省かれて結論を聞かされているような。

そうかもしれません。それではできるだけ具体的に。綾茂さんの問に答える形で。


>プレイヤーが他のゲームで特別なのにクレイジータクシーで特別でなくなっ
>ている部分はたとえばどんなところに見て取れるのですか。

クレイジータクシーというゲームで僕が好きなのは、ゲームそのものにおいて「ルール」というのが特別なものになっていない(ように思える)ところで、他のゲームよりススんでると思うのもそこです。

「ルール」というのはもちろん「時間制限があって、仕事(客を乗せて送る)をすると延長される」というプレイを続けるための方法のことです。そうしないと当然ゲームオーバーになるという意味では特別なのですけど、ここで僕が言う「特別でない」とは、「そのルールのために世界が作られているのではない」、という意味です。

たとえば、クレイジータクシーの「ゲームのルール」を、「客を乗せないで走るゲーム」にすることはたぶん造作もないことだと思います。でも、これが重要だと思うのですが、クレイジータクシーというゲームのルールをたとえば「客を乗せないで走るゲーム」にしたとしても、<クレイジータクシーというゲームの本質は変わらないだろう>と僕は想像するのです。どうでしょうか? 考え方の問題ですからそうでもないかもしれません。そうでもないとしたら僕の考えはそもそもあまり説得力がなかったということでしょう。

とりあえず僕の考えを通しておきます。

かつてからわれわれが知っていたゲームというのは、すなわち「ルール」のことだったと僕は思っています。ゲームの世界はその「ルール」のために存在するだけのもので、その限りではどんなにねじれていてもかまわなかったものだと思います。ゲームがこういうものだとすると、「ルール」が変わることはすなわちゲームが変わることです。その世界が同じものであったとしてもです。

一方、クレイジータクシーというゲームは、「ルール」ではないんじゃないかと僕は考えています。クレイジータクシーというゲームにおいて「ルール」は、そうするといいくらいの適当なものだと考えられるんじゃないかと。無論実際のクレイジータクシーの「ルール」は曲げられませんから従わなければゲームオーバーになります。でも、「ルール」従わないプレイはゲームになってなかったか、というと、そうでもないんじゃないでしょうか。おそらく、少なくとも僕は、「ルール」に従ってプレイした時と同じくらいゲームをプレイした気分になれることでしょう。

念のため言っておきますが、クレイジータクシーが唯一無二の「ルール」じゃないゲームだ、と言いたいわけじゃないです。最近のコンピュータゲームならば多かれ少なかれそういう傾向を持っているんではないかと考えます。あるいは、ゲームがそのように作られていなくても、プレイヤーは既にそのようにゲームをプレイすることに慣れているはずです。そして、そのような傾向の中で、クレイジータクシーが抜きん出ていると僕は思うんです。世界を遊ばせようとする多くのゲームが「できること」を増やそうとたくらむのに対して、タクシーを走らせることしかできないゲームで、これほど世界で自由に遊ばせてくれるクレイジータクシーに、僕は拍手を惜しみません。


さて、もう一つ。
>結局“クレイジータクシーにおいての”「すべきこと」「できること」とは何か

僕が考えるところの「すべきこと」というのは「そうすることがゲームになっている」というか、単純には「そうして(プレイヤーにとって)楽しいこと」、のようなこととして考えてます。「できること」はプレイヤーが可能なこと全部です。

で、何が言いたいかというと、ゲームにおける「できること」と「すべきこと」の対応について言おうとしています。プレイヤーが「できること」のうちの一つ(いくつか)だけが「すべきこと」である、というようなタイプのゲームと、プレイヤーが「できること」は必然的に「すべきこと」である、というようなタイプのゲームがあるのではないかと。

これも結局「いわゆるゲーム」と「仮想空間のゲーム」の違いを説明しようとしているのです。たとえば、将棋というゲームで一手目に端歩を突くのは普通意味がありませんね(「月下の棋士」とかの話は省略)。意味のない行動はゲームにおいて無効である、というのが「いわゆるゲーム」の世界です。でもどうでしょう、クレイジータクシーで客を乗せないで走ることは客を乗せて走るのにくらべて「意味がない」でしょうか? どちらも同じ意味で「ゲームをしている」ことになるんではないでしょうか。


最後に。
>私にはdotimpactさんがどの部分を見てなぜ“単に「ゲームをする」”
>と感じたのかがわからない。

これもやはりプレイヤーがゲームで何をしなければならないか、があらかじめ決まっているかどうか、という話です。たとえば電車でGO!というゲームでプレイヤーは必ず「運転士になる」ことを要求されます。そして電車でGO!というゲームで「運転士になる」方法、つまりそのゲームをプレイする方法というものがあらかじめ決定しているわけです。そのようなゲームに対するクレイジータクシーというゲームでは、そのゲームをプレイすることに決まった手続きを感じないように思います。もちろん常にタイムが0になるとゲームオーバーだし、そうならないためには客を乗せるというタクシー運転手としての本分の手続きが必要になりますけど、それは「必要にせまられる」のであってあらかじめ決定した手続きではない、と考えるのが僕の立場です。

プレイヤーとしての欲求にしたがってプレイを行うこと、そしてそのプレイの結果としてゲームが続行すること。そういうことが件の文章で「単に『ゲームをする』」と表現したことです。


というわけで一方的ではありますけど、僕がどういう意味でそう書いたのかについて説明したつもりです。もちろん書かれたものについてはどう読まれてもかまわないので、綾茂さんが僕の文章が「フトコロの深さ」について書いているのだと思えば、それはそれで僕としてはかまわないのです。